「自分がどこがどうしてわからないのか相手に伝わるように言おうとすると、あ!って気づくことがある」「しょうじ君と○○君の会話を聞いてずっと頭を動かしていたら、答が出てきました」
これらは、君たちの授業感想に書かれていたことです。ここにクラス授業の最高の武器があります。
ある有名国立高校の名物先生のエピソードをお話しさせてください。
かつてのその先生の授業では、授業中に、誰かが疑問を提出し、その疑問に対する仮説がクラス全体で飛び交う光景があったそうです。そのやりとりが物事の見方を広げ、その事象に対する理解を深め、超高校レベルの授業ができていたというのです。
しかし塾での受験対策が当たり前になり、そうした対策で受かってきた子たちの割合が大きくなるにつれて、そうした愉しくハイレベルな授業が減っていったと言います。疑問を持っても皆の前では発言せず、授業後にこっそり「答え」を聞きにくる生徒が増えたというのです。
そのせいで、「大学受験のためのレベルの低い」授業になってしまったということでした。
ここにあるのは、「理解したい」という気持ちを育む時間を与えられず、受験に受かるためという理由だけで勉強や「答え」をブロイラーの餌のように与えられた憐れな生徒たちの姿です。
この人たちが、将来、責任を持って組織を引っ張っていく姿は想像できません。
わかったこと・わからなかったことを堂々と発言し、その問いかけに皆が反応すれば、クラスは生きたものとなります。
この「生きた」というのは比喩ではありません。実際に、皆の頭が活性化し、教師の決めた予定調和的授業ではない「第三舞台」(鴻上尚史氏)が現れ、クラスの発展・成長が見られるのです。そして、それは愉しい。
日本では小学校から中学校、そして高校へと進むにつれ、だんだんと授業中に発言しなくなっていくという一般的傾向があるように思います。そして、それと軌を一にするように、自己肯定感も下がっていっているという調査結果があります。
何が要因でしょうか?
「死んだ」授業や、「結果」だけを求めた「対策」主義がそういう傾向を助長していないでしょうか。
ぼくたちは本物の「生きた」授業をつくりたい。
君はこのプロジェクトにどう参加しますか?(S)