高校部論理系の授業で読んでいた、國分功一郎著 『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)を読み終えました。帯の推薦文に、お笑いコンビのオードリーの若林さんが「國分先生、まさか哲学書で涙するとは思いませんでした…」と書いている通り、真摯に人間のあり方に向き合った素晴らしい書物でした。
この本すべてが素晴らしいのですが、ここでは特に印象に残った一節を紹介したいと思います。スピノザという哲学者の考えを引きながら記された箇所です。
人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。「これが分かるということなのか…」という実感を得る。
人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。
どうやってそれを見つけていけばよいか? 特別な作業は必要ではない。実際に何かを理解する経験を繰り返すことで、人は次第に自分の知性の性質や本性を発見していくのである。なぜなら、「分かった」という実感は、自分にとって分かるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。…〔中略〕…
だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ。
逆に、こうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。こうしなければならないからこうするということになってしまう。たとえば、数学の公式の内容や背景を理解せず、これに数値を当てはめればいいとだけ思っていたら、その人はその公式の奴隷である。そうなると、「分かった!」という感覚をいつまでたっても獲得できない。したがって、理解する術も、生きる術も得られない。ただ言われたことを言われたようにすることしかできなくなってしまう。(pp.391-392)
いつも言っていることですが、ぼくたちは点を取るために勉強しているのではありません。分かるために、そしてひいては、生きるために、勉強しているのです。
倫理学の俊英が全く同じことを言っていてくれて嬉しくなりました。
ぼくは君たちに、わかるということがわかることを通じて、自分を知り、生きる力を身につけていってほしいと願っています。
君たちはどう生きますか?(S)