昨年末、大学時代の先輩との忘年会があり、話の中で、大学時代の恩師のことを思い出しました。と言っても、ぼくの直接の師匠というわけではなく、もぐっていたゼミの先生のことです。
もぐるというのは、正式に履修登録をして参加するのではなく、先生との個人的やりとりの中で認められて、授業に参加するという大学の古き良き伝統のことです。スティーブ・ジョブズが大学を中退した後も、哲学やカリグラフィの授業にはもぐっていたというのは有名な話です。
閑話休題。
ぼくはその先生が大好きでした。真理を追求するに真摯な姿勢をもち、学生に対しても対等に向き合って議論をし、常に根本から考える姿勢を持っていました。一緒に書物を読みながら、天を仰いで「これってどういうこと?」と学生に尋ねるような先生でした。とても偉い先生でしたが、全く偉さを感じさせない先生でした。
ぼくはその先生のゼミに一年間もぐりで参加したのです。ハンナ・アーレントという思想家の書物を原文で読み、数々の議論をしました。アーレントの思想はこうである、といったような定式化は決して行わず、アーレントの文章に潜り込んでその思想を純粋に体験するような授業でした。発表当番はとても大変でしたが(読みにくいアーレントの英文50ページくらいを要約して発表するものでした)、本当に楽しい経験だったことを憶えています。
そのゼミでは尊敬できる友人も得ました。彼はそのまま、その先生の研究室に進み、大学院修士課程を総代で卒業し、アメリカの大学で博士号を取り、現在は大学教授をしています。
ぼくは彼と一緒に大学院に合格しましたが、事情があって進学を諦めなくてはなりませんでした。とても哀しい経験でした。でも、気を取り直して、サラリーマンとして頑張って働き、評価されて、出世した頃に、何の理由だったか、彼とぼくと先生の3人でお酒を飲むことになりました。
周りから大学院に進むと思われていたぼくのことを、先生は気に留めてくれていました。その時のぼくの仕事の話に先生は耳を傾けて聞き、何らか温かい言葉をかけてもらったと記憶しています。
その先生の葬儀では、彼が弔辞を読みました。とても感動的な弔辞でした。終始落涙しながら、「この弔辞を書きながら、なぜか涙が止まりません」と先生に語りかけていました。彼はそんな悲痛な気持ちを持ったなかでも、ぼくに連絡をくれ、葬儀があることを伝えてくれました。先生とお別れする機会をつくってくれたのです。
その後もいろんな学生や大学院生の面倒を見られた先生のことだから、ぼくのことは忘れてしまっていただろうと思います。でも、ぼくの記憶にある先生は、いつでも満面の笑みで、自由にやったらいい、一生懸命やったらいい、とぼくの人生を応援してくれているように思うのです。
確かなことは、先生の存在が、今のぼくの生きる力の一部になっているという事実です。先生の学問のように、自由に一生懸命生きていきたいと思います。
君はどう生きますか?(S)