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ある憲法学者のこと

 元号が変わった時に一躍、一般にも名前が知られた憲法学者がいます。その方の下の名前が令和と書く名であったため各メディアで取り上げられました。その当時、早稲田大学政治経済学術院長を務められていましたので早稲田大学内ではさらに注目を集めました。
 中高からの友人であるノーベル賞受賞者の山中伸弥氏が元号に関する懇談会の委員であったことや、やはり中高の同級生の自民党の世耕弘成参院幹事長がその方の名前に言及したことなども注目の理由でした。
 その方はそもそも学界では有名でした。世界的に有名な憲法学者であるイェール大学のブルース・アッカマン教授に師事し、その才を高く評価されていました。まさに次世代の日本の公法学を背負って立つことが期待されている方でした。
 しかし残念なことにその方は志半ばにして2022年8月1日に60歳の若さで亡くなられました。神経の難病との三年余の闘病の末でした。
 その方は大学人として熱心に仕事をされ早稲田大学に大きく貢献しました。その方は研究者として着実に評価を高めこれからをさらに嘱望されていました。そしてその方は、教育者として工夫を凝らし、学生に学ぶことの厳しさとそこにこそある楽しさを伝えていました。
 ある学生は、大学一年生の時にその方に会い、広大で深淵な学問の世界の入り口を見せてもらい、研究者を志しました。
 その学生は時間があればその方の研究室を訪ね、読んだ本についての感想を述べ、学問の話を聞き出そうとしていました。
 その方は少しはその学生との話を面白いと思ったのでしょう。その議論を引っ提げたまま昼食に連れて行ってくれることも多々ありました。
 ある時、前日銀副総裁である若田部昌澄さん(当時早稲田大学助教授)がその方を昼食に誘いにきましたが、その方は「今日はうちの学生と食べるので」と断ったこともありました。(その学生は感動しました。)
 その方は早稲田大学の政治経済学部史上での「はじめて」を更新し続けた方でした。その方は助教授として大学院の授業を受け持つはじめての人となりました。
 その時、その学生はその方に「私の大学院の授業に出なさい」と言われ、一週間で予習してくる用の英語論文150ページを渡されました。ただその学生は生活のためにしていたアルバイトとの時間が調整できずその授業には出られませんでした。
 その方はまだ大学院に研究室を持っていなかったため、その学生は紹介された別の教授の研究室を受験し、合格しました。その学生の英語力をその教授は認め、「さすが〇〇君のところの学生だね」とその学生よりもその方の名前を出して褒めました。しかしその学生は家庭事情の急変で大学院への進学を断念しました。断腸の思いでした。
 それでもその方とその元学生の付き合いは長く続きました。毎年1〜2度は顔を合わせお酒を酌み交わしました。
 コロナ禍がやってくる半年前くらいだったでしょうか、その方の学術院長就任のお祝いをその学生を含む数名でしました。学術院長の任務を終えたら、また研究に打ち込めるとその方は語っていました。
 その方の病気が発症したのは、コロナ禍が始まってからのことでした。だから、その学生にはその方が病気であることなど知る由もありませんでした。元気な姿しかイメージできませんでした。
 そして昨年突然の訃報が届いたのです。その日、その元学生は、涙は枯れないものなのだなと思いました。
 実はその元学生はいまだにその方の死を信じていません。何かを達成したらその方に報告したいと本気で思っているのです。
 人生で素晴らしい先生に会うことほど良いことはありません。だから、それを身をもって知っているその元学生は、良い先生になれるよう今日も努力しています。(S)

学習力創造アカデミー 学創(GAKUSO)